昔の農家の生活
高知県土佐町松ヶ丘地区の昔の農家の暮らしをご紹介します。今でも昔の農家の作りの一部が残っている場所もあります。昔の農家では自然循環型の生活が普通でした。自然とともに暮らしていた時代をご覧ください。大正、昭和時代のお話です。四国の田舎の昔の暮らしがご覧いただけます。
松ヶ丘地区は棚田、森林や谷の多い地区です
昔の農家の生活
土佐町の松ヶ丘地区は昔から農家が多く、稲作、畑作、狩猟などや農閑期の道路工事の作業員の仕事が中心でした。水道の代わりに谷からひいた水を一旦水槽に溜め、飲料、炊飯、風呂などに利用し水道代は不要でした。昔は農業には農業用機械はまだありませんでしたので、牛を使い荷物の運搬、田畑の耕作、牛糞の肥料としての利用が主でした。各家庭では鶏を飼い卵を食べ、鶏糞は肥料に、お客様が来られると鶏をさばいて鶏肉として料理をしていました。ヤギを飼い牛乳の代わりにヤギの乳をのむ家庭も多くありました。米、野菜、むぎ、そば、大豆、コンニャクを植え、自分で蕎麦、醤油、味噌、漬物などを作り、ほとんど自家製の物で間に合っていました。
典型的な農家の家
昔はトイレと風呂は母屋から離れて建てていました。風呂は五右衛門風呂で、薪を炊き火を使っていたので、火事になっても母屋が無事なように別棟にしていました。またトイレはポットン便所で、畑の肥料にも使っていたので、不浄でもあり母屋から離れていました。1940年ごろから次第にカヤブキも瓦に代わりました。
•自給自足が主でヤギ(ヤギの乳)、鶏(玉子、鶏糞肥料、食肉)はほとんどの家で飼っていました。
•農業のため牛 (耕運機や運搬機替わりと、肥料としての牛糞)も飼っていました。
•味噌・醤油・豆腐は大豆から作り貯蔵、米は自分で脱穀、もみすり後、蔵での貯蔵を行い、コンニャクも自家製でした。一時期は蚕も飼っていました。川では鮎、アメゴ、ウナギなどが多く釣りをして食べていました。散弾銃や鉄砲を持っている人も多く、山でウサギやハト、イノシシなど狩猟していました。
生計の基本は稲作です
昔の人は、山の奥の方まで、お米を作るため開墾をして、田んぼを作っていき、棚田になりました。稲作は水の管理が重要です。谷やため池からひいた水が山の上側にある棚田に流し込まれ、順次その水を下方の棚田に誘導するように水路を付けています。水が次々に棚田に流れていきます。
米作り
昔は鍬と人手により耕作していましたが、牛が買えるようになったら、牛を使って田んぼを耕し、荷物を運搬しました。昭和30年(1955年)代に耕運機が普及し始めると徐々に牛は使わなくなりました。肥料としては、棚田の土手やあぜ道に生えたカヤをはじめ雑草を刈って、クロを作り乾燥させた物、秋に稲刈り後作ったワラをクロに積み乾燥したもの、レンゲを栽培し刈り込んで保存したものなどを春になったらハミキリで細かく切って、田んぼに散布しました。牛糞など堆肥がある農家は自家製の堆肥を田んぼに散布して、5月末の田植えを迎えます。昔はほとんど全て家畜と人手で田んぼ作りをしていました。化学肥料が普及し多くの農家が使っていましたが、土佐町たい肥センターができ、安価な堆肥が入手でき、減農薬栽培も多くなってきています。以前のようにワラやカヤを切って田んぼに散布することは少なくなりました。
自給自足
日常生活のため最低家族分の野菜は畑等で、栗、梨、柿、梅などを植えていました。
野菜:
みそ、しょうゆ、豆腐: 大豆
漬物: 白菜、キャベツ、大根
食用:白菜、キャベツ、大根、ホーレンソウ、エンドウ豆、カボチャ、玉ねぎ、ネギ、にんにく、ショウガ、サツマイモ、里芋、ジャガイモ、コンニャクなど
果実:
柿、栗、梨、梅、柚子、モモ、山椒
田んぼや畑の肥料:
田んぼ周りの刈り草、レンゲ栽培、牛糞、鶏糞、人糞
牛の餌:
稲刈り後の保存したワラ、枯草等をハミキリで切り切って細かくしいエサにしました。
果実の保存
★ 干し柿
・天気の良い乾いた日に渋柿を皮むき器または包丁でむきます。
・縄のよじれたところに、柿の実の付け根の木の部分にT字型に切った枝を止めます。
・時々手で柿を平らにします。
・乾いて表面に白い粉がふいたら完成です。
炭窯の炭や木材の運搬
木馬(キンマ、キウマ)での炭運搬
山の道は狭く坂も急で運搬が大変でした。そこで木馬と言われる運搬する道具を作り運搬していました。
『きまた』による炭焼きの原木運搬
炭焼きは昔の田舎の生活では貴重な仕事でした。炭は囲炉裏や火鉢の燃料として、また現金収入も期待できました。炭焼き場の近くにはナラやクヌギの木が多く、子供のころから『きまた』をしょって原木を運搬しました。『きまた』は【はぐくみ幸房@山いこら】さんのブログによれば、「きかたげまた」とも言うそうです。写真は1950年台の高知県、松ヶ丘地区のきまた使用例です。きまたを使うと肩が痛く無く、原木を運搬できました。
炭焼き窯と食事
山林を持っている家では、多くの家が炭焼きをしていました。谷の近くで炭焼き窯を作り、徹夜で火加減を見ながら炭を焼いていました。 炭焼きには時間がかかるので食事は飯ごうに入れた米を近くの谷の水でといで、山の木で火をおこしご飯を炊いていました。お茶は山にお茶の木がない場所では、家の近くのお茶の木から枝ごと葉っぱを切って、葉っぱを焚火であぶり、直接ヤカンで沸かしたお湯に入れて飲んでいました。また飯ごうにご飯やおかずを入れ持っていき、田んぼや畑仕事、炭焼きなどで1日仕事に出る場合は、昼ごはん食べました。
もっそうは便利
もっそうは昔よく使われていたお弁当箱です。大きいのと小さいのがあり、大きいのには主にご飯、小さいものにはおかずが入れられていました。大きいもっそうは上下に伸びる構造になっていて、1人前から数人前のご飯が入れられます。高さが調節できるようになっていて、おかずを入れる小さいもっそうも、大きいものに入れられるのでコンパクトになります。
第二次世界大戦時代の農家
戦争は田舎の農家にも大きな影響を与えました。男性は兵士として軍隊に取られ、女性と子供が日本に残り農業を守りました。戦争に行く男性の無事帰国を願い、トラの絵を書いた布に千人針を付けて渡しました。千人針とは第二次世界大戦まで日本で行われていた、多くの女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作る祈念のお守りです。1人で刺すことができるのは1針でしたが、寅(とら)年生まれの女性は、年齢の数だけ結び目をつくることができました。特に【五黄の寅(ごおうのとら】の女性は、自分の年齢の2倍の数の針を刺すことが出来ましたので重宝されました。トラは【1日で千里を行き、千里をかえる】と考えられていましたので、強いトラにあやかり、兵士の帰還を祈っての事のようです。このトラの絵は、五黄の寅の松ヶ丘地区の川村包衛(かねえ)さんが書いたもので、当時の年齢の2倍の千人針を挿しています。
戦争中の日本の家族へのお知らせ
戦争中に海外の基地や会社等にいた家族からの手紙や写真は、軍のチェックがかかり、状況を十分親にも伝えることが出来ませんでした。中国で生まれた孫の生後50日の写真です。背景が見えないように、写真に加工されています。生活の詳しい情報はほとんどなくても、息子夫婦の写真や情報を楽しみに親は日本で農業をしていました。
コウゾ蒸しを地区の皆で行いました
1月下旬から2月上旬にはコウゾの皮をむきます。和紙の原料になります。地域に保管してある大きな釜に水を入れその上にコウゾを立てに入れ、蒸しがまの蓋をします。このコウゾ蒸し器で2時間半程度蒸して皮をはぎます。
地域の人が皆で集まり作業をします。
子供たちは蒸し器の下の大鍋の水を沸騰させるための、たき口に置いておいたサツマイモが焼けるのを待ち、焼き芋を食べます。
子供たちはカジ殻で刀を作りチャンバラをして遊びました。